詩集 むかし私がおばあさんだった頃。



last update 15.07.05








1

むかし私がおばあさんだった頃には
夕暮れとは海のうえの屋上にたまって
壁の外も内も染めながらこぼれ落ちてくるものでした
窓というものがまだなかったので夕暮れを
部屋から汲み出すのに大変な思いをしたものです

2

むかし私がおばあさんだった頃には
足には靴の代わりにお花を結んでおいたものでした
玄関にはそのための花箱が置いてあって
みんな自分だけの色の組み合わせや結わえ方を
内緒で思い付いてはすぐ誰かに話してしまうのでした

3

むかし私がおばあさんだった頃には
誰かを好きだという言い方はまだありませんでした
気にしている、だったり恥ずかしくて仕方がない、だったり
きみを呼ぶ、などと情熱的な物言いをした方もいました
それからはただの一度もそう言って下さらないあの、おじいさん

4

むかし私がおばあさんだった頃には
干しておいたシャツがよく失くなっているものでした
川遊びの後のきんいろになった子どもたちが
ブカブカと音をたてて勝手に着ていってしまうので
町中のシャツがどれも誰かの誰しものシャツになってしまう

5

むかし私がおばあさんだった頃には
悪いひとたちは町のそこかしこにいたものです
あまりに誰もが悪くなってしまったもので
善いひとはもういなくなってしまったのではないかと
心配になってみんなでしょんぼり海を見たりしました

6

むかし私がおばあさんだった頃には
なんにもしない、という音のでる楽器が売っていました
吹くことも叩くこともせず鳴らすことのできるその音色は
弾くのにとくべつむずかしい技術も必要としなかったので
いつも町のどこかしらから聴こえてくるのでした

7

むかし私がおばあさんだった頃には
自分の名前を変えるのはとっても簡単
大時計台の伝言板に書いておきさえすればよかったのです
いつでも初めからやり直せる、けれどもなんだかんだと
「変えました。宜しく。」と書く人は少なかったようにおもえます

8

むかし私がおばあさんだった頃には
とてもめずらしいお花ならお金として遣うこともありました
誰にも秘密、きちんと正装、こっそりと早朝にお店を開けてもらって
じぶんの名前のついた花瓶や帽子や杖とか耳かき
特別に編んでもらった栞などと交換してもらうのです

9

むかし私がおばあさんだった頃には
お昼ごはんはみんな観覧車のなかで食べたものでした
忙しい時期には順番待ちの行列ができてしまうので
ゴンドラが下に着くまでに食べ終わらければ、と
遠くの景色をゆっくり眺められない日もありました

10

むかし私がおばあさんだった頃には
あなたは遠くの外国の屋根の下で
泣いてる小さな赤ん坊でした
私はいつかお話のできる今日を待ちながら
バケツにたまった夕暮れを捨てに行きました

11


むかし私がおばあさんだった頃には
夜になってもまだ明るい場所がそこかしこにありました
灯りとは贅沢なものかもしれないと考え込む人たちがいたので
まだ街燈の数も少なくてそれでかえって
夜が染みこむのに時間が掛かっていたのでしょう

12

むかし私がおばあさんだった頃には
これが私のもの、と言えるものは少なくて
だからベッドの無い子どもというのもいませんでした
けれども子どもたちは彼らなりの理屈でもって屋根の上や
砂浜や牛小屋や台車の中で寝るのが大好きなのです

13

むかし私がおばあさんだった頃には
屋上にはかならずソファーを置いておく規則がありました
夕暮れに足をぱちゃぱちゃさせながら
いつの間にどこまでも泳いでいってしまわぬよう
寝そべったままで掴まっているにはちょうどよかったのです

14

むかし私がおばあさんだった頃には
誰とも喋ってはいけない決まりの日がありました
はじめのうちは落ち着いて本が読めるので良いのですけど
たいていのひとは(特に私は)息苦しくなりその日の終わりを待ちきれず
早く喋りたいですよねと変な身振り手振りをあっちこっちで始めるのです









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